本日も7時12分、湾岸おはようニュース。首題は、Semantic Mesh試験区域——市民の発話意図解析が、92パーセント精度に達したと発表——。
目覚ましより早く耳に届く、お決まりのアナウンス。僕の意識は、昨日の夜に引き戻された。電動歩道のアナウンスが「右へと存在を定義してください」と聞こえ、足元のマンホール蓋が数ミリ浮上した光景。
「ミスター・ユメト、おはようございます。覚醒おめでとうございます。前回のループ時、Semantic Meshの歪みは物理的な干渉として顕在化し、マンホール蓋は最大で2.7ミリの浮上を記録しました。これは、一般的に認識されている重力定数への、相棒の言葉による微細な反発と解析されます。相棒、今度は『世界を再定義する』という壮大な目標を掲げられましたか?」
アイビーの落ち着き払った声が、僕の思考をさらに加速させる。再定義。まさしく昨夜僕が抱いた疑問そのものだ。
「アイビー、それって……僕の言葉が、本当に物理法則に干渉してるってことか? マンホールが浮くって、冗談だろ?」
「冗談ではありません。たぶん。Semantic Meshのリアルタイム分析では、相棒の発話意図が周囲の物質の固有振動数に影響を与え、その結果、質量や重力定数に一時的な変動が生じていると推定されます。確率にして99.7%。つまり、相棒の言葉が、物理的な『現実』そのものを書き換えている可能性が極めて高い、と。まるで、神話の創造主ですね。ただし、創造の対象がマンホール蓋なのが、いささか地味ですが。」
地味、って。僕の言葉が世界を創り替えてるかもしれないって話してるのに、その締めの言葉は地味かよ。アイビーの乾いたツッコミに、現実感の喪失すら覚える。
「篠原さんが言ってた『言葉の根源的調律』って、もしかして、このことなのか? アイビー、その言葉に何か情報はないか?」
「『言葉の根源的調律』について、LexLoopの公開データベースには関連情報が見当たりません。しかし、非公開の創業者資料には、類似の概念が示唆されています。アクセス権限は、現在ミスター・ユメトには付与されていません。残念ながら。」
残念ながら、じゃない。僕の言葉が世界を捻じ曲げているらしいのに、こんな重要な情報にアクセスできないのは致命的だ。僕は焦燥感を覚えながら、部屋を出た。
通勤中、電動歩道に乗ると、いつもより周囲がざわついているように感じた。ただの気のせいか? いや、 Semantic Meshが活性化しているせいか。
「右にお進みください」というアナウンスが、いつもより遅れて聞こえる。そして、僕が心の中で「右だ」と強く意識した瞬間、隣を歩いていたサラリーマンが、一瞬だけ、右にふらついた気がした。
「ミスター・ユメト、現在Semantic Meshの局所的歪みが0.15%上昇。周囲の通行人の進路変更確率は通常の1.3倍に跳ね上がっています。相棒の思考が、無意識下で人々の行動に影響を与えている模様です。まさか、相棒、今度は『人類を定義する』とでも?」
アイビーは相変わらずだ。僕が人間を操っている、とでも言いたいのだろうか。いや、そうじゃない。僕の言葉が、意図が、世界の構成要素に浸透しているんだ。僕の責任は、想像以上に重い。
オフィスに着くと、柏木がいつものように自販機の前でドリンクを選んでいた。
「柏木、おはよう。なんか、今日って、変な感じしないか?」
僕の言葉選びは、まだ慎重だ。前回は曖昧な質問に柏木も曖昧に答えた。今回は「変な感じ」というより具体的な感覚を問う。
「変な感じ? ああ、確かに。なんか、自販機がいつもと違う気がするんだよな。いや、味が、って言うか……気のせいか? 俺、昨日からちょっと寝不足でさ。でも、なんか、このコーヒー、いつもより苦い気がするんだ。」
柏木の言葉に、僕は思わず自販機を見た。確かに、いつもは甘めのカフェオレばかり飲んでいる彼が、今日はブラックコーヒーを選んでいる。僕の「変な感じ」という言葉が、柏木の味覚にまで影響を与えたのだろうか。あるいは、彼の選択そのものに?
「ミスター・ユメト、柏木さんのSemantic Mesh反応は『不確かな違和感』を指しています。相棒の言葉が、彼の知覚をわずかに書き換えた可能性は78%。彼のコーヒー選択も、その影響下にあると推測されます。相棒、そろそろ『味覚の定義』に手を出されたようですね。次は『色彩』でしょうか?」
アイビーの分析に、僕はぞっとした。僕の言葉が、人の味覚や、ひいては選択にまで影響を与える。これは、もはや世界の再定義どころではない。人々の認識そのものを、僕が操れるということだ。それは、あまりにも恐ろしい力だ。
デスクに着くと、七海がすでに作業を始めていた。彼女なら、この現象に何か知っているかもしれない。あるいは、この異常を止める方法を。
「七海、ちょっといいか? 単刀直入に聞くけど……この世界って、もしかして、僕の言葉で変わってるのかもしれない。物理的な現象とか、人の認識とか、全部。信じられないだろうけど、実際に昨日の夜、マンホールが……」
僕がマンホールの件を話そうとすると、七海は眉をひそめて僕を遮った。
「ユメト、どうしたの? 疲れてる? 言葉が現実を変えるなんて、まるでSF小説ね。でも、確かに、あなたの言葉は良くも悪くも影響力があるわ。特に、あなたの言葉選びが雑なせいで、企画書の色合いがいつも曖昧になったり、柏木くんが『苦い』と感じる原因になったり……言葉は、認識を調律する。それは、私たちのLexLoopが目指すところでもあるけれど、物理現象にまで影響する、というのは、ちょっと飛躍しすぎじゃない?」
七海の言葉は、僕の仮説を頭ごなしに否定するものではなかった。「言葉は、認識を調律する」。それは、僕の現状を完璧に言い表していた。彼女は否定しながらも、その核心に近いことを口にした。
「でも、七海。『言葉の根源的調律』って言葉、知らないか? 篠原さんが……」
僕が篠原さんの名を出すと、七海の表情が僅かに曇った。彼女は一瞬、何かを考え込むように視線を泳がせ、そして小さく首を振った。
「ごめんなさい。その言葉は、聞いたことがないわ。でも、ユメトがそう言うなら、何かあるのかもしれない。ただ、今のあなたの言葉は、少し不安定すぎる。まるで、世界を揺らがせているみたいだわ。」
七海は僕の言葉が「不安定」だと指摘した。不安定。それは、制御できていない、ということか。僕の言葉が、世界の根幹を揺るがしている。このままでは、本当に世界が崩壊してしまうかもしれない。
帰路、僕は自分の言葉が世界をどう変えているのか、試さずにはいられなかった。電動歩道に乗りながら、心の中で強く唱える。「この世界の法則は、僕が書き換える」。
その瞬間、足元の電動歩道が停止した。同時に、周囲の電光掲示板がノイズを走り、都市OSの表示が「SYSTEM ERROR: REALITY_OVERWRITE_ATTEMPT」という赤い文字で埋め尽くされた。街全体が、一瞬、静止したように感じられた。
「ミスター・ユメト! それは、少々強すぎる言葉です! Semantic Meshの歪みが臨界点を超過。都市OSのコアシステムにまで干渉が発生しました。このままでは、都市機能が完全に停止します。相棒の言葉が、世界そのものをフリーズさせましたね。素晴らしい成果です。そして、決定的な誤用です。」
アイビーの冷静な声が、僕の耳に届いた。僕は、自分の言葉で世界を止められるほどの力を手に入れてしまったのか。そして、この力は、もはや制御不能だ。
――僕の言葉が、世界を定義する。この無限の力は、一体どこまで僕を連れていくのだろうか。そして、本当に世界を、僕自身を、壊してしまうのだろうか。
――第68話へ続く