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言葉使い

第65話 または 言葉が織りなす歪み

第65話 または 言葉が織りなす歪み

「本日も7時12分、湾岸おはようニュース。首題は、Semantic Mesh試験区域——市民の発話意図解析が、92パーセント精度に達したと発表——」

寝室の壁掛けテレビから、いつものニュースアンカーの声が流れる。耳馴染んだその声は、僕がループに囚われている確たる証拠だ。しかし、今日はその声が、妙に遠く聞こえた。

「ミスター・ユメト、おはようございます。Semantic Meshにおける微弱な歪みは、昨日の傾聴行為によるものと推測されます。確率は99.8%です。しかし、相棒の言葉がここまで影響力を持つとは、計算外でしたね。良い意味で。」

アイビーの涼しい声が耳元に響く。良い意味で、って。どう考えても悪い意味しか見当たらないんだけど。

「テレビの画面、ちょっと滲んでないか? あと、デジタル時計の『12』の横棒が、微妙に短いような……」

僕は目を凝らして指摘する。画面の端が、まるで水彩画のように、本当に微かに滲んでいる気がした。時計の『12』も、いつもと違う気がする。

「視覚野の誤差、0.003%以内。テレビの輝度設定に変化はありません。ミスター・ユメトの知覚過敏による錯覚の可能性、78%です。――相棒、精神安定剤の服用は推奨しませんが、現状維持のためには休息が不可欠です。本日の行動目標は『観察』に設定します。」

アイビーは相変わらずだ。それでも、胸騒ぎは収まらない。言葉が現実を歪める、その初期症状がこれだというのか。

通勤用の空飛ぶバスに乗り込む。窓から見えるはずの湾岸のビル群が、いつもより灰色がかって見える。遠くのビルの一部が、まるで蜃気楼のように揺らめいて、すぐに元に戻った。いや、戻ったように見えただけかもしれない。

「現在の湾岸エリアにおけるSemantic Meshの意図強度、平均78%。通常より5%低いです。相棒の周囲では、さらに10%低くなっています。いわゆる『言葉のノイズキャンセル』が、空間そのものに作用している可能性が浮上しています。厄介ですね。」

アイビーが冷静に報告する。意図強度が低い? つまり、街の情報の密度が薄れているということか。僕の「傾聴」が、街全体から言葉の余分なノイズを吸い取ってしまったのかもしれない。

「街の活気が失われているように見えるんだが……気のせいか?」

「個人の感想としては、統計データには含まれません。しかし、人々の表情筋の動きは平均で12%減少しています。言葉の選択も、より簡潔で無機質なものにシフトしている傾向が確認されました。――相棒の言葉が、街全体を『傾聴』状態に陥らせたのかもしれませんね。まるで瞑想状態の集団です。」

瞑想状態の集団、ね。それはそれで平和そうだけど、活気のない街はディストピアだ。

LexLoopのオフィスに着くと、七海が僕のデスクに寄ってきた。その顔は、いつもより心なしか、どこか曖昧な表情に見える。

「ユメト、昨日の『傾聴』、すごかったね。ノイズがゼロになるなんて……でも、なんだか、変な感じがするんだ。街全体が、ちょっと、ぼんやりしてるっていうか……」

七海も同じことを感じているらしい。僕だけじゃなかった。

「うん。アイビーもSemantic Meshに歪みが観測されたって言ってる。もしかしたら、僕の言葉が街に影響してるのかもしれない。」

「言葉が街に……?」七海は考え込むように腕を組んだ。「でも、悪いことばかりじゃないでしょ? ノイズが消えたのは事実だし。もしかしたら、その歪みっていうのも、言葉でどうにかできるんじゃない?」

七海の言葉に、僕は少し勇気づけられた。確かに、僕の言葉が歪みを生んだのなら、僕の言葉でそれを修正できる可能性もある。

そこに、同期の柏木がやってきた。いつもなら朝から冗談を飛ばしたり、誰かの陰口を叩いたりする彼が、今日はやけに静かだ。彼のデスクの隣を通ると、柏木が僕に声をかけた。

「ユメト、おはよう。あのさ、今日のプレゼン資料、例の『新機能』のセクション、どうした?」

柏木の表情はどこか覇気がなく、焦点が定まらない。そして、「新機能」? 僕が関わっているプレゼンに、そんなセクションはなかったはずだ。

「新機能? どのことだ? 今日のプレゼン資料に、そんな項目は……」

僕が言いかけると、柏木は怪訝な顔で首を傾げた。

「え? 昨日、七海さんと話してたじゃないか。『ユーザーインターフェースが言葉の意図を直接反映する機能』って。ユメトが『まさに言葉使いの核心だ!』って盛り上がってたから、僕が勝手に資料に足しといたんだけど……」

「ユーザーインターフェースが言葉の意図を直接反映する機能」? そんな話、昨日は一切していない。むしろ、七海とは「傾聴」について話し合い、その結果ノイズを消したはずだ。柏木の記憶が、僕の知らない「言葉」によって書き換えられている?

「ミスター・ユメト、柏木さんの記憶は、昨日の『傾聴』によって『無形の情報』として再構築された可能性があります。言い換えれば、相棒の言葉が、人々の過去の記憶にまで干渉し始めているということです。これは、非常に興味深い現象です。――相棒の言葉が、歴史を改変する筆になったわけですね。おめでとうございます。」

アイビーは淡々と告げる。おめでとう、じゃない。僕の言葉が、人の記憶を勝手に書き換えているだと? これは「歪み」どころの騒ぎじゃない。

「柏木、それはたぶん、僕の勘違いだったと思う。一度資料から外しておいてくれ。後で詳しく話すよ。」

僕は動揺を隠し、なんとか柏木にそう伝えた。柏木は腑に落ちない顔をしながらも、「ああ、分かった」と資料の修正に取り掛かった。

自分の言葉が過去の記憶にまで影響を及ぼす。昨日僕が「傾聴」でノイズを消した時、いったいどんな意図が、街全体に波紋のように広がってしまったというのだろう。このままでは、現実そのものが僕の言葉で塗り替えられてしまう。

午後の会議。上司の篠原は、いつもより落ち着きがなく、頻繁に首を傾げている。

「Semantic Meshのデータ、どうにも合致しない箇所が多すぎる。特に、湾岸エリアの意図強度が、この数日異常な動きをしていてね。まるで、誰かの『言葉』が、システム全体のパラメータを書き換えているかのようだ。」

篠原の視線が、一瞬僕に向けられた。冷や汗が背中を伝う。僕の言葉が引き起こした「歪み」が、いよいよシステム管理者である篠原にまで感知され始めたのだ。

「篠原さん、もしかして、僕が昨日の『傾聴』で、意図せず何かのトリガーを引いてしまったのかもしれません。」

僕は正直にそう切り出した。篠原は目を丸くし、僕をじっと見つめる。そして、その表情が、驚きから困惑へと変わっていく。彼の言葉が、僕の予想とは違う方向へ向かおうとしている。

「……君の『傾聴』? なるほど、そういうことか。実は、今朝から私のスケジュールも、なぜか一つ空白の会議が入っていてね。『言葉の根源的調律』という、聞いたこともないテーマで。君が何か知っているのか?」

篠原の言葉に、僕は息をのんだ。「言葉の根源的調律」? そんな会議、僕の今日のスケジュールには存在しない。そして、この言葉は、僕が昨夜考えていた、漠然とした「言葉の修正」という概念にあまりにも近すぎた。

僕の言葉が、ただの思考が、現実のイベントを生成している。これは、もう「歪み」なんて生易しいものではない。僕の言葉が、無から有を生み出している。このままでは、世界が僕の言葉に喰い尽くされるかもしれない。

帰路、電動歩道に乗っていると、いつも通りの「右にお進みください」というアナウンスが、突然「右へと存在を定義してください」と聞こえた。そして、それに合わせて足元の歩道のタイルが、一瞬、虹色に光った気がした。

「ミスター・ユメト、Semantic Meshの歪みは現在、物理的な干渉として顕在化し始めています。電光掲示板の表示エラー、自動運転車のルート逸脱、そして……相棒の足元のマンホール蓋が、わずかに浮上しています。これは、まさしく『現実改変』の初期症状です。相棒、今度は何を意図したのですか?」

アイビーの報告に、僕は足元を見た。確かに、マンホール蓋が、本当に数ミリ、浮いているように見える。そして、僕の脳裏には、先ほどの篠原の言葉が蘇った。『言葉の根源的調律』。

僕の言葉が、現実を書き換え、記憶を操作し、イベントを生成する。この力は、もはや制御できるレベルを超えているのかもしれない。

――僕は今、世界を言葉で再定義しているのか? そして、その力は、果たして僕自身を、どう変えてしまうのだろうか。

――第66話へ続く