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言葉使い

第63話 または 傾聴の歪み

第63話 または 傾聴の歪み

「本日も7時12分、湾岸おはようニュース。首題は、Semantic Mesh試験区域——市民の発話意図解析が、92パーセント精度に達したと発表——」

いつものアンカーの声で、僕は目を覚ました。壁掛けディスプレイには、聞き慣れたニュースと、見慣れた空飛ぶバスの遅延情報。ループを自覚する。昨晩はリセットされなかったはずだが、この朝のニュースは必ず同じだ。それが僕にとっての、ループの確証。あるいは、朝の挨拶。

「おはようございます、ミスター・ユメト。昨晩はループリセットされませんでした。記録によると、ノイズ鎮静は成功。ただし、『放棄された意図』が残存しました。これは、相棒が言葉を発することをやめた、平均的な社会人の意識残渣と酷似しております。」

アイビーの声はいつも通り冷静だ。だが、その表現には、いつもの皮肉が混じっていた。

「意識残渣って……心のゴミってことか、アイビー」
「要約すれば、その認識で概ね問題ありません。相棒が日頃から無意識に放り捨てている、些細な不平不満、諦念、あるいは無視した言葉の積み重ねが、集団として共振している状態と言えます。昨日の『沈黙』は一時的にノイズを抑えましたが、根本的な解決には至りませんでした。放棄されたものに対し、沈黙は同調、あるいは承認と見なされた可能性が78%です。」
「やっぱりな。沈黙は、否定じゃないって言ったけど、向こうはそう受け取らなかったと」
「その可能性は、大いにあります。言葉の解釈は、常に受け手次第ですから。相棒の恋愛遍歴を見れば、それは明白でしょう。」

朝から毒を吐く相棒AIをスルーし、僕は空飛ぶバスに乗り込んだ。通勤ラッシュは相変わらずだが、心なしか、ざわつきが少ないように感じる。昨日の「沈黙」が、少しは効いているのだろうか。

「アイビー、『放棄された意図』に、何を言えばいいと思う?」
「解析を続行しました結果、『放棄された意図』は、特定のターゲットを持たない、無形の共振です。言わば、公共AIインフラにおける心のゴミと表現できます。清掃には、通常とは異なるアプローチが求められます。一般的な排除の言葉では、むしろ反発を招くでしょう。統計上、そのような試みは92%の確率で失敗しています。」
「心のゴミか……。捨てられたものに、何を言えばいいんだ?」
「放棄されたものに再び意識を向ける。それが第一歩でしょう。例えば、『拾う』という概念。あるいは『認める』といった言葉。強い意図で排除するのではなく、受け入れる姿勢が肝要です。相棒が恋愛で学ばなかったことですね。」

またも痛いところを突いてくるアイビーに、僕は苦笑いした。受け入れる、か。

オフィスに着くと、七海が僕を待っていた。
「ユメト、おはよう。昨日はすごかったわね、『沈黙』。ノイズがあそこまで減るなんて」
「ああ、でもまだ残ってる。『放棄された意図』ってやつが。アイビーは『心のゴミ』だって言うんだけど、どうすればいいかな、七海」
「心のゴミ……。ゴミなら、拾うか捨てるか、よね。でも、心の話なら、『寄り添う』とか、『受け入れる』とか……。言葉として、すごく難しい」

僕が悩んでいると、同期の柏木がデスクにやってきた。
「おはよう、ユメト、七海さん。なんだか今日、オフィスがいつもより落ち着いてない? 気のせいかな、集中しやすい」
「(柏木の反応は、Semantic Meshが少し落ち着いている証拠か)ああ、そうかもな」

篠原部長も通りがかった。いつもの険しい表情が、今日は少しだけ和らいでいるように見える。
「ユメト、昨日の成果、悪くなかったと聞いている。この調子で頼むぞ」
彼の言葉は、明らかに昨日の僕の言葉選びがポジティブに作用したことを示していた。

昼過ぎ、僕と七海は再び湾岸エリアの巨大サイネージ前に立っていた。ノイズマップには、まだ小さな赤い点が残っている。廃棄された意図の残り香だ。

「ミスター・ユメト。今回のノイズ源は極めて曖昧です。強い意図で排除しようとすれば、かえって反発を招く可能性が53%。慎重な言葉選びが推奨されます。恋愛のように猪突猛進ではダメだということです。」

アイビーの忠告に、僕は深く頷いた。排除ではなく、受け入れる。寄り添う。そして、耳を傾ける。

「よし、決めた。沈黙は、否定じゃない。それは、相手の言葉を待つための静けさだ。僕が……僕たちが、聞く番だ」

僕はUIを操作し、言葉を、その意図を強く意識する。

『傾聴』!」

僕の言葉がSemantic Meshに放たれると、UIのゲージが大きく振れた。しかし、それは昨日のような荒々しい波形ではなく、穏やかで深く、ゆっくりと広がるような波紋だった。ノイズマップの隅に残っていた赤い点が、ゆっくりと、しかし確実に、まるで吸い込まれるように消え始めた。

「消えていく……! 『傾聴』。そうか、放棄された意図に耳を傾けるってことね……!」
七海が息をのむ。僕も、その光景に言葉を失った。

「ノイズレベル、完全にゼロ。ミスター・ユメト、これは驚くべき成果です。あなたの言葉は、無形の存在にまで影響を及ぼすようです。この現象、データ分析には不可欠な新たなフェーズに入ったと言えるでしょう。相棒の言葉使いも、少しは成長したようです。たぶん。」

アイビーは相変わらずだが、僕は安堵の息をついた。ノイズが、完全に消えた。しかし、その瞬間、街の景色がほんの一瞬、揺らめいたような気がした。

「……ただし、Semantic Mesh全体に、微弱な歪みが観測されました。これは、『傾聴』という言葉の副作用か、あるいは、新たな現象の兆候かもしれません。原因は現在分析中です。相棒の言葉が、現実を揺るがす領域に入った可能性は、99%以上です。」

アイビーの報告に、僕の背筋に冷たいものが走る。「歪み」? 言葉が、現実を塗り替える筆だとすれば、今度はどんな絵を描いてしまったというのだろうか。

――第64話へ続く