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言葉使い

第61話 または 分岐する朝

第61話 または 分岐する朝

第7章 第7部

「本日も7時12分、湾岸おはようニュース。首題は、Semantic Mesh試験区域——市民の発話意図解析が、92パーセント精度に達したと発表——」

いつもの声。いつものフレーズ。目覚ましの電子音より先に、壁掛けテレビが起動する。

僕は飛び起きた。

「アイビー、これは……」

頭が真っ白になる。昨晩は「及第点」でループを抜け出したはずだ。なのに、この状況は一体。

「おや、ミスター・ユメト。驚かれたようですね。確かに、昨晩のあなたは『及第点』を獲得し、通常通りの0時を迎えました。リセットは発生していません。しかし——」

アイビーの声はいつも通り冷静だ。だが、その声のトーンが、この状況の異常さを際立たせる。

「しかし、何なんだよ。このニュースは、一体……」

「その点については、現在解析中です。昨晩23時59分59秒までは、タイムラインの継続が確認されております。しかし、0時0分0秒に、突如としてタイムラインが『分岐』した可能性が、0.003%程度ながら存在します。あるいは、システムの深刻なバグでしょうか。ロスタイムとは異なる、不具合のような事象と仮定できます。いずれにせよ、今朝のデータは、昨日と完全に同一です。あなたの記憶と、私のログだけが、昨日の続きを覚えている。そう解釈できます。」

アイビーは淡々と説明を続ける。ループではない。だが、昨日はなかったことになっている。そんな馬鹿な話があるか。身体は昨日の疲労を覚えていないのに、記憶だけが鮮明に残っている。これは、もうループではない、別の何かの始まりだ。

「とりあえず、オフィスへ向かいます。七海のUIは、僕の記憶の中にしかないのか?」

「ご安心ください。七海氏のUIは、LexLoopのサーバー上に存在します。昨日の成果は、そのまま引き継がれている模様です。現在のSemantic Meshのノイズレベルは、昨日と全く同じ、警戒レベル3です。あなたの言葉の再定義は、まだ途上にあると判断できます。」

「ちくしょう、また最初からか……いや、最初からじゃない。昨日の経験がある。」

僕は歯を食いしばり、電動歩道に乗った。街のサイネージは相変わらず点滅している。昨日とまったく同じ風景。だが、僕の心持ちは違う。あのUIがある。そして、あの時の篠原さんの言葉も、七海の言葉も、僕の耳には鮮明に残っている。

「アイビー、七海のUIを起動してくれ。テストだ」

「承知いたしました。試作UI『アウラ』を起動します。現在の接続は、低レベル帯域のみに限定。意図強度の出力は0.5%に設定されています。」

左腕に装着したスマートバンドから、七海が作ったホロディスプレイが展開される。半透明のインターフェースには、言葉の「意図強度」を示すゲージと、「共振度」を示す波形が表示されている。

僕は試しに、道の脇に立つ配達ドローンに向かって、UIを通して声を放った。

「ドローンさん、今日もご苦労様!」

「意図強度0.5%にて発話しました。Semantic Meshへの干渉は微細です。対象ドローンの応答を待機——」

ドローンは一瞬、機体の姿勢制御を乱したかのように揺らめいた。そして、いつもの機械音声で応答する。

「確認しました。配達を継続します」

しかし、わずかに、その音声のトーンが滑らかに感じられた。気のせいか?

「Semantic Meshの局所ノイズが、0.01%減少しました。これは、相棒が発した言葉の品質によるものと推測されます。素晴らしい効果です。たぶん。」

アイビーの評価に、僕は小さくガッツポーズをした。これだ。このUIと僕の言葉で、ノイズを鎮めることができる。

LexLoopのオフィスに着くと、七海がすでにデスクに座っていた。彼女も、昨日の続きではないことに気づいているのか、少し疲れた顔をしている。

「ユメト……やっぱり、あなたも?」

「ああ。まったく同じ朝だった。でも、僕は昨日のことを全部覚えてる」

「私もよ。まるで、私たちの記憶だけが、タイムラインを飛び越えてきたみたい。いや、違う。このSemantic Meshの異常が、過去を書き換えたのよ。0時ちょうどに、何かが起きて、私たち以外のデータが巻き戻った」

七海は悔しそうに唇を噛んだ。彼女の洞察はいつも鋭い。そして、今回は僕と同じ記憶を持っている。これは心強い。

「しかし、UI『アウラ』は残っています。昨日の努力は無駄ではありません」

アイビーが言うと、七海の顔に少しだけ生気が戻った。

「そうね。ユメト、UIの調整は万全よ。あとは、ノイズの発生源を特定して、直接言葉を届けるだけ」

七海のホロディスプレイに、湾岸エリアのSemantic Meshのノイズマップが表示される。昨日のそれとまったく同じ、危険な赤色だ。

「最もノイズ強度が高いのは、やはりあの巨大サイネージ付近か……」

僕はためらうことなく、UIに手を伸ばした。昨日と同じ失敗は繰り返さない。僕の言葉が、今度こそこの異常な状態を終わらせる。

「アイビー、周辺のSemantic Meshをスキャン。最も共振しやすい周波数帯域を特定して、アウラに送ってくれ」

「承知いたしました。スキャン開始——ターゲット周波数、特定。UI『アウラ』にデータ転送完了。どうぞ、ミスター・ユメト。あなたの言葉が、世界の再定義を開始します。」

僕は、深呼吸をして、サイネージの向こう側に意識を集中させた。

『沈黙』……」

僕は、そう呟いた。UIのゲージが大きく揺れ、波形が強力な共振を示した。意図強度は50%。

瞬間、巨大サイネージの点滅がピタリと止まった。街の喧騒が、ほんの一瞬だけ、静寂に包まれる。Semantic Meshのノイズマップから、赤色が鮮やかに消え去っていく。

「ノイズレベル、83%減少! これは……驚異的な効果です。相棒、あなたの言葉は、まるで現実を塗り替える筆のようです。たぶん。」

「やった……」

七海が息をのむ。僕も、震える手でUIを見つめた。言葉が、物理現象にこれほど直接的に影響するとは。しかし、ノイズマップの隅に、まだ小さな赤い点が残っていた。

「まだだ。完全に消えていない。何が残ってる?」

「解析結果——残存するノイズ源は、『放棄された意図』。特定の言葉ではなく、言葉を発することを諦めた、あるいは放棄された、集団の意識が共振していると推測されます。これは、昨日とは異なる、新たなノイズ源です。」

アイビーの報告に、僕は背筋が凍るような感覚を覚えた。「放棄された意図」。それは、果たして僕の言葉で鎮めることができるのだろうか。

――第62話へ続く