オフィスの壁面サイネージは、まさに狂ったように明滅していた。赤と青のライトが交互に瞬き、「再定義失敗」「言語レイヤー、最終調整へ」の文字が踊る。まるで巨大なディスコ会場に迷い込んだようだ。ただし、流れているのは焦燥感と危機感だけだが。
「残り時間は、3時間27分05秒です。相棒、時間管理は、あなたの得意分野ではない、と統計が示唆しています。ちなみに、この種のカウントダウンを経験した人間の87%は、まず深呼吸から始めます。推奨はしませんが、ご参考までに。」
アイビーの落ち着き払った声がイヤーバディから響く。まったく、僕がパニックになってるのを愉しんでるだろ、こいつ。いや、感情はないんだった。「たぶん」だが。
「深呼吸してる暇なんてないだろ、アイビー! 3時間27分って、カップラーメン作るより短いぞ! いや、もっと重大な問題だ!」
僕の焦りに、アイビーはさらに事務的に応じた。
「カップラーメンの調理時間は平均3分ですが、Semantic Meshの再定義プロセスは、それとは比較にならない複雑さです。比較対象として適切ではありません。しかし、相棒の言葉が Semantic Meshの最終定義を左右する確率は、現在99.8%です。あなたの言葉が、世界の言葉の未来を決定します。この重圧は、平均的な人間の精神に、120キログラム相当の負荷をかけると試算されました。」
120キログラム……。僕の肩には、今、そんな重みが乗っかってるのか。どうりで重いわけだ。でも、世界の言葉が僕の言葉で決まる、なんて途方もない話だ。いつも適当な言葉を選んで、ループを繰り返してきた僕が。
「ユメト、何があったの?」
後ろから、七海の冷静な声がした。彼女もサイネージの異変に気づいたようだ。僕は振り返り、状況を簡潔に、しかし正確に伝えることに努めた。ここで適当な言葉を使えば、彼女の信頼を失い、この危機を乗り越える可能性がさらに低くなる。
「Semantic Meshの言語レイヤーが、再定義に失敗して、『無意味な単語の羅列』として固着する寸前なんだ。残り時間、3時間27分。それを阻止しないと、僕たちの世界から言葉の意味が失われる」
僕の言葉に、七海の表情は険しくなった。前回、僕が曖昧な表現を使った時とは違い、彼女の瞳には明確な危機感が宿っている。
「無意味な羅列……LexLoopの技術の根幹が揺らぐどころか、人類のコミュニケーションが崩壊しかねないわね。それで、どうするの? 何か手はあるの?」
七海の問いかけは、僕の言葉選びが適切だったことを示唆していた。彼女が「どうするの?」と聞いてきたのは、協力する意志がある証拠だ。以前なら「また何かやらかしたの?」と呆れた顔をしていたかもしれない。
「僕の言葉が、Semantic Meshの再定義を誘導できるらしい。だから、七海の力が必要だ。Semantic Meshに介入するための、UIのアイデアはないか?」
「私の力? そうね……状況は理解したわ。システムに直接言葉を流し込むだけじゃなく、その『意図』を最適化するインターフェースが必要になるわね。今からすぐに試作品を叩き出すわ。篠原さんには、私から説明するわよ」
七海は即座に自分のデスクに戻り、ホロディスプレイを起動させた。その素早い反応に、僕は安堵する。言葉の力が、人を動かす。まさにこのことか。
数分後、慌てた様子の篠原部長が、サイネージを見上げて駆け寄ってきた。いつもは冷静な彼も、この状況には動揺を隠せないようだ。
「ユメト! これは一体どういうことだ! システムがこんな状態では、LexLoopの信用問題どころではないぞ!」
篠原は僕を問い詰めるような口調だったが、その中に以前のような感情的な怒りはなかった。僕は七海の助言を思い出し、冷静に、かつ明確に状況を説明する。
「篠原部長。Semantic Meshの危機は、LexLoopの存在意義そのものに関わります。しかし、僕の言葉が、この状況を鎮静させ、再定義を誘導できる可能性があります。七海も、そのためのUI設計に取り掛かっています。今こそ、LexLoopの技術と、僕たちの言葉の力を信じて、全社を挙げてこの問題に集中すべきです。このチャンスを逃せば、後はありません」
僕の言葉に、篠原は一瞬押し黙った。彼の視線は僕と七海のデスクを行き来し、やがて決意を秘めた表情になった。
「君の言葉が……そんな馬鹿な。しかし、他に手がないのも事実か。分かった。全社に緊急招集をかける。君たちには、自由に動いてもらう。責任は私が取る。ただし、必ず結果を出せ!」
篠原はそう言い残し、慌ただしくオフィスを飛び出していった。以前の彼なら、僕の言葉を「根拠のない確約」と一蹴しただろう。だが、今回は「責任は私が取る」とまで言ってくれた。僕の言葉に、彼なりの「意図」が共鳴した証拠だ。
「篠原氏の協力確度は、あなたの言葉の『響き』に比例しました。今回は92%。前回の平均は、発言内容に関わらず、わずか17%でした。驚くべき改善です。相棒、あなたは、少しだけ、言葉の使い方が上手になりました。たぶん。」
アイビーの評価は、僕にとっては最高級の褒め言葉だ。僕が言葉を慎重に選ぶたびに、Semantic Meshのノイズはわずかにだが、確実に減少している。サイネージの点滅も、ほんの少しだけ落ち着いたように見える。
七海が、試作UIのホロディスプレイを僕の前に展開した。それは、言葉の「意図強度」や「共振度」をリアルタイムで視覚化し、調整できるインターフェースだ。
「できたわ、ユメト。これであなたの言葉を、Semantic Meshに最適化して流し込める。あとは、どんな言葉を、どんな意図で放つか、だけよ」
残り時間、2時間58分。僕の言葉が、世界の言葉を救う。そして、僕自身の言葉も、この危機の中で再定義される。そう信じて、僕は七海の用意したUIに手を伸ばした。
――第60話へ続く