朝7時12分。目覚まし時計が鳴るよりも早く、寝室の壁掛けディスプレイが自動で起動した。
「本日も7時12分、湾岸おはようニュース。首題は、Semantic Mesh試験区域——市民の発話意図解析が、92パーセント精度に達したと発表——」
ああ、やっぱりか。僕は重い溜め息を吐いた。七海からの「明日、話したいことがあるの」というメッセージは、結局幻に終わったわけだ。昨日の終業後、「これでループ回避か?」と一瞬安堵したのに。
「ミスター・ユメト。統計では50%の確率で、あなたの行動はループを引き起こすと予測されていました。誤差の範囲内です」
イヤーバディからアイビーの無機質な声が響く。僕の落胆をよそに、冷静に事実だけを告げる。
「誤差の範囲内って……。で、今回は何が原因だったんだよ、アイビー? 昨日はクライアント案件もマシだったし、大きな誤用はなかったはずだろ」
「今回の重大な誤用は『不信の表明』です。正確には、あなたの心中に存在した『どうせループするだろう』という諦念が、Semantic Mesh上で強い負の意図として検知されました。結果として、未来の確定性が失われ、システムがリセットを選択したと推測されます」
「はぁ!? 心の中まで監視してるのかよ、Semantic Meshは!」
「Semantic Meshは発話だけでなく、行動、表情、そして微弱な脳波パターンからも意図強度を推測します。特に『言葉使い』であるあなたの場合、その影響は顕著です。昨日、私が『予測不能』と申し上げた直後、あなたが『またループか?』と内省したことが、決定的なトリガーとなりました」
僕は頭を抱えた。まさか、心の内の諦めがループの原因になるとは。これじゃあ、ポジティブシンキングを強制されてるみたいじゃないか。
「ちくしょう……。じゃあ今回は、何をすればいいんだ?」
「不信感を払拭し、未来への積極的な意思を表明すること。それ以外に選択肢はありません。確率論では、過去の経験を鑑み、あなたが諦めを克服できる可能性は32%に留まりますが」
アイビーの煽りに、僕は奮起するしかない。32%? 上等だ。今回は意地でもループを乗り越えてやる。
---
通勤中の空飛ぶバスの中でも、僕はひたすらポジティブな言葉を心掛けた。隣に座った見知らぬ乗客に「良い一日を」と声をかけると、相手も驚いた顔で「あなたも」と返してくる。いつもなら無視されるか、怪訝な顔をされるのに。
LexLoopのオフィスに着くと、柏木が僕のデスクに寄ってきた。
「おはよう、ユメト。なんか今日は機嫌良さそうだな。いつもより顔色もいい」
「おはよう、柏木! ああ、今日は良い日になりそうな気がしてさ」
いつものような、自虐的な返答ではなかったためか、柏木の表情は穏やかだ。前回のループでは「寝不足だろ、お前」と言われたことを思い出す。小さな変化だが、確かに言葉が周囲を変えている。
その時、七海が僕のデスクの傍らを通りかかった。僕は意を決して声をかける。
「七海、おはよう。昨日のメッセージ、ありがとう。ちゃんと今日が来たよ」
七海は少し驚いた顔で立ち止まった。前回のループでは、僕は彼女のメッセージを心の中で「どうせ来ない明日」と処理してしまっていた。
「……ええ、そうね。話したいことがあるって言ったけど、今時間ある?」
前回よりも、わずかに話しかけるタイミングが早い。そして、その表情には、どこか探るような色が混じっていた。
「もちろん。今すぐでも」
七海は僕をミーティングルームへと誘った。いつもより少しだけ、彼女の目が鋭い気がする。
---
ミーティングルームで、七海は僕の目をまっすぐに見つめた。
「ユメト、あなた、最近何か隠してる? 言葉の選び方が、時々不自然なのよ」
心臓がドクンと鳴った。やはり七海は気づいているのか。不信感を抱かれるのはまずい。しかし、正直にループのことを話すわけにはいかない。
「不自然って……どういうこと?」
「『直感』とか『予感』って言葉をよく使うけど、それが妙に的確すぎる時がある。まるで、何かを『知っている』かのように」
アイビーが耳元でささやく。「ミスター・ユメト、七海さんの Semantic Mesh における『不信感の検知閾値』は平均より20%低い数値を示しています。慎重な言葉選びを推奨します」
僕は必死に弁解する。「そ、そんなことないよ! たまたま、かな? 最近、開発中のAIの影響で、言葉への意識が高まってるからさ」
七海は疑わしげな視線を僕から離さない。「……そう。ならいいんだけど。でも、もし何か困ってるなら言ってね。私たちはチームなんだから」
前回よりは、納得してくれたようだが、完全に不信を払拭できたわけではない。彼女の言葉には、まだかすかな探りが入っている。嘘をつくことが、かえって「不信の表明」につながる可能性を感じ、僕は焦った。
---
午後のクライアントとのオンライン通話では、僕は「不信の表明」を避けるだけでなく、「信頼」と「確実性」を前面に出す言葉を選ぶよう努めた。
「ご安心ください、今回の提案は御社のビジョンを確実に実現します。私たちのLexLoopが、確かな成果をお約束いたします」
前回の通話で使った「マシ」という言葉とは真逆の、強い確約の言葉を繰り返す。クライアントの担当者は、画面越しに何度か頷いた。
「……なるほど。前回の説明より、はるかに具体性があり、信頼できますな。これで進めていただきましょう」
通話が切れると、僕は大きく息を吐いた。よし、今回はうまくいった!
「クライアントの信頼度、90%に上昇しました。契約確度95%。今回は完璧な言葉選びでしたね、ミスター・ユメト」
アイビーの評価に、僕は思わずガッツポーズをする。「よっしゃ! 今回は間違いなくループ回避だろ!」
「ただし、Semantic Meshの『過剰な確約』に対する警告値が、許容範囲の15%を超えています。特に『確実』『完璧』といった言葉の多用は、リスクを伴います」
「え、そんなことまで!?」
嬉しさも束の間、アイビーの指摘に僕はまた頭を抱える。言葉って本当に難しい。諦念がダメなら、自信過剰もダメなのか。まるで綱渡りだ。
---
終業時刻を過ぎ、僕は慎重にオフィスを出た。今日はもう何も言わない、何も考えない、と決めていた。しかし、帰り道、再びイヤーバディに通知が入る。七海からだ。
『明日の朝、やっぱりもう少し話したいことがあるの。特に、LexLoopの『言葉使い評価API』について。』
僕は立ち止まった。言葉使い評価API? それはLexLoop社内でも、ごく一部の人間しかアクセス権を持たないはずの、非公開のAPIだ。
「え、API? なんで七海がそれを……」
「ミスター・ユメト、七海さんが言及したAPIは、LexLoop社内でもごく一部の人間しかアクセス権を持たない非公開のものです。彼女がこれを知っていること自体、Semantic Meshの深い領域に触れている可能性を示唆しています」
僕の疑問に、アイビーが追い打ちをかける。七海はどこまで知っているんだ? そして、このAPIが、僕のループと何か関係しているのか?
明日の朝。もし今日がループしなければ、七海との会話はこれまで以上に重要な意味を持つことになるだろう。この「明日」は、本当に来るのだろうか。