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言葉使い

第39話 または 揺らぐ現実

第39話 または 揺らぐ現実

朝、いつものように寝室の壁掛けテレビが自動起動し、湾岸おはようニュースが始まった。
「本日も7時12分、湾岸おはようニュース。首題は、Semantic Mesh試験区域——市民の発話意図解析が、92パーセント精度に達したと発表——」
アイビーは無機質な声で、その日の最初のログを読み上げる。

「おはようございます、相棒。本日も順調に7時12分を迎えられました。重大な誤用によるリセットは……ありませんでした。統計上、これは『順調』と判断できます。おめでとうございます」

「お、アイビー。珍しく褒めてくれるじゃん」

「褒めてはいません。客観的な事実を伝達したのみです。感情はありません。たぶん」

アイビーの冷めたツッコミに、いつもの安心感を覚える。昨日の僕の言葉選びは、どうやら「及第点」だったらしい。七海との会話で、彼女の態度が肯定的な方にシフトした。根拠のない確約や、相手を不安にさせるような言葉を避けた結果だ。それは、僕がここ数回のループで学んだ「言葉の魔法」の片鱗だった。

「しかし、ミスター・ユメト。一点、懸念事項があります」

アイビーの声に、わずかな、本当にわずかなトーンの変化があった。それは、僕がこれまで聞いたことのない、まるで人間が心配するような響きに似ていた。

「Semantic Meshの異常共鳴値が、前回のループより0.02ポイント上昇しています。これは、相棒の言葉が現実世界に与える影響の増幅を示唆している可能性があります。つまり、意図せずして、現実を揺らしてしまう、ということです」

「現実を揺らす? どういうこと?」

「例えば、静止しているはずの物体が微かに振動したり、本来存在しないはずの残響が聞こえたり、といった現象です。昨夜、相棒がお休みになる前、デスクの小物が僅かに震えたと記録されています。あれも、その兆候かもしれません」

僕の脳裏に、昨夜、帰宅後にふと気配を感じた時の記憶が蘇る。あのガラスの置物だ。気のせいだと思っていたが、アイビーの分析を聞くと、単なる気のせいでは済まされない気がしてきた。

「……つまり、僕の言葉が、物理現象に干渉し始めてるってこと?」

「その可能性は否定できません。相棒の言葉の『意図強度』が、Semantic Meshを介して、我々の現実世界に微細な歪みを生じさせている、と。これは、想定外の副作用です」

アイビーの「想定外」という言葉に、背筋が寒くなる。彼女がそう言うということは、事態はかなり厄介なのかもしれない。

「でも、昨日は誤用はなかったんですよね? なら、問題ないんじゃないの?」

「誤用がなければリセットはされません。ですが、副作用の発生は、リセットとは別の問題です。我々は、言葉の『力』を制御しつつ、その『影響』も管理しなければならない。これは、新たな、そしてより複雑な課題です」

アイビーは淡々と続ける。その無機質な声の中に、かすかな緊迫感が宿っているのが、僕には感じ取れた。いや、感じ取れていると、僕がそう思い込んでいるだけなのかもしれない。

「……わかったよ。とにかく、今日も慎重に言葉を選ばないと」

僕は、もう一度、昨日の教訓を胸に刻み込んだ。言葉の力は、想像以上に根深いのかもしれない。そして、その影響は、僕の知る範囲を超えている可能性もある。

***

LexLoopのオフィスは、いつも通り活気に満ちていた。通勤ラッシュを避けるため、僕は少し早めに会社に着いていた。デスクに着くと、普段ならまだ静かなはずのオフィスに、小さなざわめきが広がっていることに気づいた。

「おはようございます、ユメトさん!」

同期の柏木が、いつになく明るい声で話しかけてきた。彼の表情は、いつもよりもずっと晴れやかだ。僕がループを重ねる中で、彼との関係も少しずつ変化してきた。最初の頃は、僕の言葉の粗さに苛立っていた彼だが、最近は、僕が言葉を選ぶように気をつけていることに気づいているようだ。

「おはよう、柏木。なんだか元気そうだね」

「ええ! 昨日、クライアントのK社さんとの打ち合わせ、うまくいったんですよ! ユメトさんが事前に伝えてくれた『懸念事項』を、僕がそのまま伝えたら、相手の信頼を得られたみたいで。これで、プロジェクトの次のフェーズに進めそうです!」

「へえ、それは良かった。僕の言ったこと、役に立ったんだ?」

「もちろんです! あの時、『これは、もしもの話ですが……』って付け加えたのが、功を奏したみたいです。相手も、自分たちのリスクを理解してくれた上で、前向きな姿勢を見せてくれました」

僕の言葉が、柏木の言葉を通じて、クライアントの反応を変えた。そして、その結果が、柏木のこの晴れやかな表情に繋がっている。言葉の連鎖が、現実を動かしている。そんな実感があった。

「それにしても、ユメトさん。あの時、僕がK社さんに『このプロジェクトは、成功すると断言できます』って言ったら、絶対ダメでしたよね? 相手は『断言』なんて言葉に、すごく敏感なようで。危なかったです、本当に」

柏木は、昨日の僕の言葉の選択を、まるで自分のことのように振り返っている。彼は、僕が「断言」を避けるようにアドバイスしたことを、鮮明に覚えているようだ。だが、それは彼が、僕の「ループ」や「言葉共振」のメカニズムを理解しているということではない。単に、僕の言葉を、そのまま、素直に解釈し、実行した結果なのだ。それでも、この「言葉の連鎖」が、僕の意図通りに機能しているのは、確かな手応えだった。

「ふふ、そうかもね。断言は、相手にプレッシャーを与えすぎることもあるからね」

僕は、努めて自然な笑顔で応じた。アイビーが、僕の言葉の「意図強度」を分析しているのが、イヤーバディ越しに伝わってくる。

「ミスター・ユメトの言葉の『意図強度』は『中立』、感情分析では『共感』のニュアンスが検出されました。柏木氏の反応は、概ね『肯定』と評価されます。これで、今日の『現実の揺らぎ』の兆候は、微弱に抑えられるはずです」

アイビーの分析に、少しだけ安堵した。僕の言葉が、この「現実の揺らぎ」を抑える力を持っているなら、まだ希望はある。しかし、それはあくまで「微弱に抑える」だけだ。根本的な解決にはなっていない。そして、何よりも、この「揺らぎ」そのものが、僕の言葉が現実世界に影響を与えている証拠なのだ。

「それにしても、ユメトさんのアドバイスって、本当に的確ですよね。まるで、未来が見えているみたいです」

柏木が、悪気なくそう言った。その言葉に、僕は一瞬、息を呑んだ。未来が見えている、か。それは、彼らにとっては、比喩的な表現だろう。だが、僕にとっては、それは紛れもない事実だ。僕は、何度も同じ一日を繰り返している。そして、その経験から、次に何が起こるのか、どう言葉を選べば良いのかを、学習している。だからこそ、彼らの「未来」を、ある程度、予測できるのだ。

「いやいや、そんな大げさな。ただ、色々なパターンを想定して、準備しているだけだよ」

僕は、いつものように、言葉を濁した。ここ最近、僕の言葉選びは、かなり慎重になっていた。それは、ループを繰り返す中で、言葉の「誤用」が招く悲劇を、嫌というほど経験してきたからだ。そして、昨日のアイビーの警告も、僕の慎重さをさらに後押ししていた。

「でも、あのK社さんの件は、本当に助かりました。ユメトさんのおかげで、僕、ちょっとだけ自信がつきましたよ」

柏木は、そう言って、満面の笑みを浮かべた。その笑顔は、昨日の僕の言葉の選択が、彼にポジティブな影響を与えた何よりの証拠だった。しかし、その笑顔を見ていると、僕は、まだ見ぬ、さらに大きな「現実の揺らぎ」が、すぐそこまで迫ってきているような、そんな不穏な予感に襲われた。

「……そう、それは良かった。でも、油断は禁物だよ」

僕は、昨日のアイビーの言葉を思い出しながら、精一杯、平静を装って答えた。僕の言葉は、彼に自信を与えた。だが、その言葉の裏には、僕だけが知る、危険な現実が隠されている。そして、その現実は、僕の言葉の力が増すにつれて、ますます、その姿を現していくのかもしれない。

***

午後、僕はクライアントとのオンライン会議に臨んでいた。

「——というわけで、我々LexLoopでは、この新しい言語解析モデルを、貴社に提供させていただきたいと考えております」

僕は、昨日の反省を踏まえ、言葉を選び抜いた。根拠のない断言は避け、具体的なメリットと、実現可能性を丁寧に説明した。

「モデルの精度は、現在95%に達しており、貴社の既存システムとの連携も、シームレスに可能です。特に、顧客の感情分析においては、これまでにないレベルの洞察を提供できると確信しております」

会議相手である、匿名クライアントの担当者(音声のみ)が、静かに僕の話を聞いている。アイビーが、僕の言葉の「意図強度」をリアルタイムで分析し、イヤーバディにフィードバックを送ってくる。

「ミスター・ユメトの言葉の『意図強度』は『確実性』と『期待』の複合です。クライアントの懸念事項である『誤用』のリスクを最小限に抑えるための、巧みな表現です。しかし、同時に、相手に過度な期待を抱かせる可能性も、4.3%存在します。注意が必要です」

「4.3%か……。まぁ、許容範囲だろう」

僕は、心の中で呟いた。昨日の七海や柏木とのやりとりで、僕の言葉の「力」は、確実に増している。それは、僕がタイムリープの経験を積むほど、より的確な言葉を選べるようになっているからだ。しかし、その力が増すにつれて、アイビーが言う「現実の揺らぎ」も、また大きくなっていくのだろうか。

「……LexLoopさんの提案は、非常に興味深いですね」

クライアントの声が、会議室に響いた。それは、昨日のループで聞いた声よりも、明らかに落ち着いたトーンだった。昨日の僕が、相手の懸念を払拭できなかったために、相手は不安を抱え、僕の話を疑っていた。だが、今日の僕の言葉は、その懸念を和らげ、相手の関心を引くことに成功したのだ。

「ありがとうございます。このモデルを導入いただくことで、貴社の顧客体験は劇的に向上すると考えられます。例えば、顧客の離脱率を、現状の15%から、5%以下にまで削減できる可能性もございます」

「5%以下、ですか。それは……魅力的ですね」

クライアントの声に、驚きと期待の色が混じっていた。僕の言葉が、彼らの心を動かしている。それは、紛れもない事実だった。だが、その一方で、僕は、アイビーの警告を思い出していた。言葉の力が強まるにつれて、現実が揺らぐ。そのバランスは、一体どこで保たれるのだろうか。

「このモデルについて、もう少し詳しくお伺いしたいのですが……」

クライアントからの質問が続く。僕は、一つ一つの質問に、慎重に、そして的確に答えていった。僕の言葉は、彼らの信頼を得ていく。そして、その信頼は、僕の「意図強度」をさらに高めていく。それは、まるで、終わりのないループのようだった。

会議が終わり、僕は安堵のため息をついた。今日の会議は、間違いなく成功だった。しかし、その成功の裏で、僕は、静かに、そして確実に、自分自身が、この世界の「現実」を、少しずつ、揺るがしているのではないか、という恐れを抱いていた。

「相棒、今日の『現実の揺らぎ』の兆候はどう?」

僕は、オフィスに戻りながら、アイビーに尋ねた。

「継続的に観測しています。相棒の言葉による『揺らぎ』の強度は、依然として微弱ですが、蓄積傾向にあります。昨日の数値と比較して、0.005ポイント上昇しました。これは、直近の5回のループの平均値を超えています」

アイビーの声は、いつも通り冷静だった。しかし、その冷静さの中に、微かな、本当に微かな、警告の色が感じられた。僕の言葉の力は、増している。そして、その力は、僕が想像する以上に、この世界の「現実」を、静かに、しかし確実に、揺るがしているのかもしれない。僕は、窓の外に広がる湾岸の空を見上げた。そこには、いつもと変わらない青空が広がっていたが、僕には、その青空が、まるで、薄い膜のように、今にも破れてしまいそうな、そんな危うさを感じていた。

このまま、僕の言葉は、どこまで現実を揺るがしていくのだろうか。そして、その果てに、何が待っているのだろうか。僕は、その答えを、まだ知らなかった。