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言葉使い

第37話 または 不確実な約束

第37話 または 不確実な約束

寝室の壁掛けディスプレイが、午前7時12分を告げる。と同時に、合成音声のアンカーが抑揚のない声で語り始めた。

「本日も7時12分、湾岸おはようニュース。首題は、Semantic Mesh試験区域——市民の発話意図解析が、92パーセント精度に達したと発表——」

また、このニュースだ。

「……やれやれ」

僕は天井を見上げた。もう何度目になるのか、数えるのも馬鹿馬鹿しい。昨日の最終局面で、僕は決定的な『誤用』をやらかしたらしい。おそらく、あのクライアントへの「確約」が原因だろう。

「ロスタイムへのご挨拶、お疲れ様です、相棒。前回の『根拠なき確約』は、契約確度を23%まで低下させました。これは相棒の記録におけるワースト3にランクインします」

イヤーバディから、アイビーの無機質な声が響く。まるで僕の失敗を数値で嘲笑っているようだ。ユーモアのつもりなのだろうが、今の僕にはただの嫌味に聞こえる。

「ワースト3かよ。そりゃひどいな」
「はい。統計上、相棒の評価は著しく低かったと言えます。今回の課題は、『不確実性を受容しつつ、信頼を構築する言葉』です。成功確率は、ええと……現状では計算できません」

計算できない、と堂々と言い放つあたりがアイビーらしい。でも、それが今回の僕のテーマなのだろう。安易な確約はしない。不確実な未来を、誠実な言葉で語る。

出社後、僕はまず上司の篠原のデスクに向かった。今日の朝会で、例のクライアント案件について報告する前に、個人的に状況を共有するためだ。前回は「必ず成功させます」と口走ってしまい、篠原の眉間の皺が一段と深くなったのを覚えている。

「篠原さん、おはようございます。先日ご報告したクライアント案件の進捗ですが、現状、いくつかの不確定要素がありまして」

僕は慎重に言葉を選んだ。漠然とした「不確定要素」という言葉ではなく、具体的にどの技術的課題が、どの程度の確率で、どの期間に影響を及ぼす可能性があるのかを簡潔に説明した。前回はただ不安を煽るだけになっていた箇所も、今回は代替案とリスクヘッジ策を提示する。

篠原は、前回よりも顎に手をやる回数が少なかった。彼の視線は、僕の顔ではなく、手元のタブレットに表示された資料に向けられている。前回は終始、僕の言葉の裏を探るような視線だったから、これは大きな進歩だ。

「篠原さんの表情が前回と比較して、やや『理解』に傾倒しています。確約を避けたことで、逆に信頼度が0.5ポイント上昇したと推測されます。興味深いですね」

アイビーが耳元でささやく。0.5ポイント。微々たるものだが、前回は確実にマイナスだったはずだ。まずは第一関門突破といったところか。

午前中、クライアントとのオンライン会議が始まった。音声のみの通話だが、Semantic Meshを通じて相手の感情意図は筒抜けだ。前回、僕は「御社のビジョンは必ず実現します」という、根拠薄弱な熱意で押し切ろうとして失敗した。相手は「本当にそうか?」と疑念を隠さなかった。

今回は違う。僕は、あくまでLexLoopの技術で『サポートできること』と、『現時点では確約できないこと』を明確に線引きした。

「現状の技術では、貴社が求める『完璧なリアルタイム翻訳精度』は、市場平均で92%が限界です。しかし、LexLoopの次世代APIを導入することで、95%への引き上げが期待できます。残りの5%については、ヒューマンチェックとの連携を推奨します」

相手は沈黙した。前回とは異なる沈黙だ。疑念ではなく、検討の沈黙。

「ミスター・ユメトの正直な報告により、クライアントの警戒レベルが前回比で15%低下しました。しかし、同時に『追加情報への要求』が30%上昇しています。言葉は常に、新たな要求を生み出します」

アイビーの分析が耳に届く。やはり、完全に安心させたわけではない。だが、前回のような不信感からの拒絶ではなく、具体的な議論のテーブルには乗せられたということだ。これは大きな違いだ。

「今回の言葉選びは、短期的な確約よりも長期的な関係構築に貢献する可能性が高いです。しかし、契約確度自体は、まだ55%です」

昼休み、七海が僕のデスクにやってきた。手に持ったマグカップからは、アロマの香りが漂ってくる。

「ユメト、今日のクライアントとの通話、聞かせてもらったわ」

七海は僕の顔をじっと見つめる。前回は「あなたの言葉には実が伴ってない」と一刀両断されたが、今回はどうだろう。

「正直な言葉は、ときに相手を失望させることもある。でも、それが長期的な信頼に繋がる。今日のあなたは、それを証明してくれたわね」

七海がマグカップを傾ける。その表情は、前回よりも明らかに柔らかい。僕の言葉が、七海の態度をも変えたのだ。

「ミスター・ユメトの言葉は、七海さんの感情状態を『中立』から『やや肯定』へシフトさせました。これは相棒の記録では、初めての肯定的なニュアンスです。驚きました」

アイビーも珍しく驚いた様子だ。僕は安堵の息をついた。今日の試みは、少なくとも七海には評価されたらしい。しかし、その時、僕のデスクの隅に置いてあった小さなガラス製の置物が、微かに振動したような気がした。

「……ん?」

七海が怪訝そうな顔で僕を見る。僕は気のせいかと思い、首を振った。

帰路、僕は空飛ぶバスの中で今日の成果を振り返っていた。根拠なき確約を避け、誠実な言葉を選ぶ。それが功を奏し、各方面の反応は前回よりも良好だった。

「本日の重大な誤用は検出されませんでした。ロスタイムは回避されました。おめでとうございます」

アイビーの声が、ようやく心底安心させてくれるようなトーンに聞こえた。

「しかし、Semantic Meshの異常共鳴値が、前回のループより0.02ポイント上昇しています。これは……言葉の副作用の兆候かもしれません。おめでとうございます、ミスター・ユメト。課題は継続です」

僕はバスの窓の外を眺めた。湾岸の夜景が、微かに揺らいで見える。ループは回避できた。だが、アイビーの言う「言葉の副作用」とは一体……。僕は再び、不確実な明日へと踏み出す。